「家族は互いに支え合う存在です」
こう言われても、特に違和感はありません。
では、
「家族は相互利用可能なリソースです」
これはどうでしょうか。急に冷たく聞こえます。というか冷たいと言われました。
しかし
- 家族に相談する
- 子どもを預ける
- 生活費を出す
- 知識を教える
- 一緒にいることで安心する
- 愛情を与える・受け取る
これらを「支え合う」と呼ぶこともできますし、互いの時間・能力・知識・金銭・感情といった資源を利用していると書くこともできます。
リソースとは「資源」や「供給源」を意味し、目的に役立つ材料や資産のこと、らしいです。
時間も資源。知識も資源。人間関係も資源。感情も、行動や意思決定に使えるという意味では資源になり得ると考えます。
にもかかわらず「家族は資源」と言った瞬間、人間を道具扱いしているように聞こえる。
この違和感が気になったので、言語学的に何が起きているのか調べました。
言葉は事実だけでなく「どう見るか」まで運んでいる
同じ現実を指していても、選ぶ言葉によって受け手の印象は変わります。
これは単なる気分の問題ではありません。
言葉には辞書的な意味だけでなく、過去の使用から生まれた連想や評価があり、さらに聞き手は「なぜこの言い方を選んだのか」まで推測します。
今回の「家族は資源」が冷たく聞こえる理由は、主に次の3つ
- 単語が異なる意味のフレームを呼び出す
- 単語には使用されてきた文脈による評価的な雰囲気が付く
- 聞き手が、言葉そのものを超えて話者の意図を推測する
つまり、現実の構造が同じでも、言語として伝達されるものは同じにならないということです。
感覚的には理解できると思いますが、よくよく考えると意味不明です。
「支え合う」と「資源を利用する」は同じ現実を切り取れる
例えば親に子どもを預ける場面を考えます。
「家族に支えてもらった」と言えば温かい。
「家族という人的資源を利用した」と言えば急に冷たい。
しかし起きていることを機能だけで見れば、親が持っている時間・労働力・経験を利用して、自分の時間を確保しています。
精神的な関係でも同じです。
「恋人といると安心する」は自然ですが、「恋人の存在から心理的安定という効用を得ている」と書くと、途端に人間味がなくなります。
だからといって、愛情がないとは限りません。
資源であることと、大切であることは何も矛盾しません。
代替不能な資源もありますし、失えば人生に大きな影響が出る資源もあります。
「資源」という言葉自体に、使い捨て・交換可能・搾取といった意味が含まれているわけではありません。
単語は「フレーム」を連れてくる
いまいち理解できていませんが、フレーム意味論では、多くの単語の意味は、その単語が呼び起こす出来事・関係・参加者などのまとまりで理解できると考えます。
例えば「料理する」という概念を理解するとき、料理人、食材、容器、熱源などを含む意味フレームが関係します。
「家族」「支え合う」という言葉からは、愛情、家庭、協力、安心といったものが前面に出ます。
一方で「資源」「利用する」と言えば、配分、管理、効用、手段といった別の側面が前面に出ます。
同じ人間関係を見ていても、どの側面にライトを当てるかが変わるわけです。
「家族は資源」という記述が間違っているからではなく、普段は家族について語るときに使わないフレームを持ち込むため、異質に感じるのです。
社会生活を送るうえでの規範や常識が言語に表れているようです。
「利用する」は対象が人間になると急に悪く聞こえる
- 図書館を利用する
- 制度を利用する
- 空き時間を利用する
どれも中立です。
ところが「友人を利用する」になると、搾取した、騙した、自分だけ得をした、といった意味まで感じやすくなります。
こうした現象と関係する、コーパス言語学において発達した概念に意味的韻律があります。
繰り返し特定の語や文脈と一緒に使われることで、辞書的な意味だけでは説明できない肯定的・否定的な評価を帯びることがあります。
コーパス研究でも、意味的韻律は、ある表現が共起語から一貫した評価的な雰囲気を帯びる現象として扱われています。
「人を利用する」が必ずこの仕組みだけで説明できる、とまでは言えません。
ただ、辞書的には中立な語でも、実際の使用の蓄積によって評価的なニュアンスを持つという点は今回の違和感を考えるうえで重要です。
人は「なぜその言い方をした?」まで勝手に読む
さらに語用論があります。
人間は、発言された文章だけを処理しているわけではありません。
例えば、
「映画に行かない?」
と聞かれて、
「明日試験なんだよね」
と答えたとします。
「行かない」とは一言も言っていません。しかし普通は断っていると理解します。
会話の含意は、「実際に言ったこと」と「その発言によって伝えたこと」が異なる現象を扱います。
これを「家族は資源」に当てはめると、聞き手は文章にないことまで勝手に推測します。
「普通なら『家族に支えてもらう』と言うのに、なぜ『資源を利用する』と言った?」
そこから、
「家族に愛情がないのでは?」
「人間を道具として見ているのでは?」
と推論する。
しかし、そんなことは一言も言っていません。
「家族は資源として利用可能である」と「家族を愛している」は普通に両立します。
聞き手が言葉の選択から話者の態度を推測した結果、元の発言より強い意味が勝手に追加されています。
参考:東京外国語大学・野元裕樹「グライスの含意の理論」(PDF)
言い換えただけで善悪まで変わったように感じる
「家族に頼る」は普通。
「家族を利用する」は悪そう。
「恋人といると安心する」は愛情。
「恋人から心理的効用を得る」は冷酷そう。
「時間を有効活用する」は賢い。
「時間という資源の効用を最大化する」は急に経営会議っぽい。
現実に起きていることが大きく変わったわけではありません。
同じ現実のどこを前面に出すかが変わっただけで、受け手の感情的評価まで動く。
だから広告や政治、企業広報でも言葉選びが重要になります。
「監視」と「見守り」、「解雇」と「人員最適化」のように、表現を変えるだけで同じ出来事への印象はかなり変わります。もちろんこれらは厳密な同義語ではありませんが、どの側面を前景化するかによって評価を動かせる例としては分かりやすいでしょう。
その言葉を選んだ含意が推測されやすければ、ただの言葉遊びに見えてしまいます。
言葉は思ったより余計なものを運んでいる
言葉は事実を運ぶだけでなく、その事実をどの角度から見るか、さらに話者をどう評価するかまで受け手に推測させます。
情報伝達の道具として考えると余計なものを運びすぎです。
ただ、その余計な部分まで含めて言語なのだと考えると、気持ち悪いくらいよくできています。
ゆる言語学ラジオに毒されてきましたかね。

